▶ 刻印
・左画像の左が松平定信、右が鎌田弘済会で、鮮明度が大きく違う
・拓本の上段の説明文は香川県の史跡xxxの解説で作者は「宗文」
・その下の中段は「宗友」と書かれているが、「友」には見えない
・拓本の下段は「宗久」だが、松平定信からは「久」にも見えない
・高松市のHPは「宗友」、松平定信からは「宗文」では
・拓本の上段の作者が徳川吉宗の孫の「松平定信」なら、少なくても
200年以上前だから鮮明なのか
▶ 高松市のホームページの説明文
指 定 区 分 重要文化財
指定年月日 昭和42年6月15日
所 在 地 屋島寺(高松市屋島東町1808)
解 説
屋島寺の梵鐘(ぼんしょう)は、総高102センチ、口径64センチ、厚さ6センチ、青銅の鋳物で「鋳繰(いぐ)り」の手法で鋳造している。撞座(つきざ)の位置は高く、またその方向は竜頭(りゅうず)の方向と直角で、古い様式である。乳(ちち)は4段4列、池の間の銘は陽鋳されている。それによると、沙門(しゃもん)蓮阿弥陀仏が、衆生(しゅじょう)を救うために、鎌倉時代の承久(じょうきゅう)元年(西暦1219年)京都に上り、六条町で十方檀那に勧進して、4年後の貞応(じょうおう)2年(西暦1223年)に鋳造した。鋳師は散位土師(さんいはじ)宗友とある。また、鋳造から300年後の室町時代の大永(たいえい)4年(西暦1524年)に讃岐国金倉寺(こんぞうじ)再興のため、法灯院住持勢義(せいぎ)を諸檀施主(せしゅ)として衆生済度のために、一時金倉寺へ移したことが陰刻の追銘によってわかる。しかし、70年後の文禄(ぶんろく)年間(西暦1592年~1596年)に両寺で爭が起こり、当寺にかえされたと伝えられている。本県では、国分寺の銅鐘(平安時代前期の作と推測される:800年代初期)についで古く有名である。
~ 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋 ~
▶ 大正11年当時の鐘楼堂
・鐘楼堂の左奥の建物は位置からして「三躰堂」と思われる
・松の木が多く生えてて、今とは全く雰囲気が違う