島国である日本は、四方を海に囲まれていることから、製塩はもっぱら海水を原料として行われてきました。中でも瀬戸内地域は古くから製塩が盛んで、弥生時代中期から奈良時代(長岡京期)にかけて土器製塩(どきせいえん)が行われていました。土器製塩は瀬戸内海でも備讃瀬戸で盛んに行われ、香川県の海浜、島嶼には、土器製塩遺跡が120か所以上も発見されています。
当時の製塩法は海水を土器に汲み入れて加熱し、ニガリ(苦汁)を含んだ粗製の塩の結晶を得ていたと考えられています。万葉集には「藻塩焼く」という言葉が登場しますが、これは、海水を付着させた海藻を焼き、その灰を濃い塩水の鹹水(かんすい)に漬けることで、より濃縮された鹹水を得ようとする工程とする見方が有力です。
しかし、やがて自然海浜の砂面を利用して鹹水を採取し、それを煮つめる方法に移行していきます。鎌倉時代末期になると、自然海浜に溝や畦を設けた初歩的な塩田の形態が次第に整ってきます。この塩田は揚浜式と呼ばれるもので、人力でくみ上げた海水を砂に散布して太陽熱や風で水分を蒸発させるという作業を何度も繰り返し、次に、塩分の付着した砂をかき集め、それを海水でろ過して鹹水を作り、さらにこれを煮つめて塩の結晶を取り出すという方法です。煮つめ用の釜には、あじろ釜、土釜、石釜などが使用されました。
江戸時代に入ると、瀬戸内海沿岸を中心に「入浜(いりはま)式塩田」が開発され、普及発達していきます。この方式は、砂海と塩田の境に開閉可能な海水取り入れ口を備えた堤防を築き、潮の千満の差を利用して海水を自動的に塩田に引き入れ、毛細管現象によって砂層部に海水を供給させ、それを天日により水分を蒸発させます。そして塩分の付着した砂を沼井に集めて海水をかけ、鹹水を採るというものです。ことにより、揚浜式で必要だった海水を人力で散布する過酷な作業が不要となり大幅な労力の省略ができるようになりました。
本格的な入浜式塩田の起源については明確でなく、はじめは、自然の干潟がそのまま採鹹地(さいかんち)として利用され、干満差の大きな内海や、干潟の発達した場所を入浜式塩田としていたようです。しかし、しだいに堤防や海水溝などがつくられるようになり、塩田としての形が整っていきました。
そして、入浜式塩田は、阿波・讃岐・伊予・長門・周防・安芸・備後・備中、備前・播磨(現在の徳島、香川、愛媛、山口、広島、岡山、兵庫)の瀬戸内海沿岸10か国を中心に築造され、「十州塩田」として、以後約400年間にわたって、日本独特の製塩法として盛んに行われました。
讃岐は、海岸線が長く広い干潟があるという地理的条件に加えて、雨が少ないという気象条件に恵まれていることから、塩田開発に適しており、江戸時代の初期には、すでに東讃の引田・松原・志度・牟礼、坂出、丸亀の塩屋、小豆島、塩飽の島などで塩田が開かれています。これらの地域の中には、天正15年(1587)に、生駒氏が播州赤穂から讃岐に封ぜられてきたこともあり、播州赤穂から塩づくりに従事する人が讃岐に移住してきたといわれています。
讃岐で最初に築造された本格的な入浜塩田は、江戸中期の宝暦5年(1755)、屋島西海岸の潟元(かたもと)に開かれた「亥の浜(いのはま)」です。この塩田は、高松五代藩主松平頼恭(よりたか)の命により、藩の殖産興業の一環として実施されました。頼恭は平賀源内を見出した高松藩中興の祖といわれる人物です。
頼恭は潟元の海辺に塩田を開こうとして時の執政・木村亘(黙老)に命じ、亘は梶原景山(かじわらけいざん)にその工事を担当させます。宝歴3年(1753)春から着工し、何度も堤防が決壊するという難工事の末、宝歴5年に30余町歩の塩田が完成しました。その年が亥(いのしし)であったので、その塩田は「亥の浜」と呼ばれました。景山はこの経験を生かして、翌6年には16町歩の「子の浜(ねのはま)」も築造しました。
それから70数年後の文政12年(1829)、高松藩は第九代藩主・松平頼恕(よりひろ)のとき、坂出の海浜に東大浜・西大浜の塩田を築きます。この塩田は、財政難に陥っていた高松藩の難局を打開するため、久米通賢(栄左衛門)の建白と普請により、3年6ヶ月をかけて築かれたもので、排水溜の整備、海水取入口などの構造に久米式といわれる独特の工夫がなされた当時わが国有数の大塩田でした。
こうして塩は、砂糖・綿と並んで“讃岐三白”の一つに数えられるようになりました。しかし、綿と砂糖は、明治20年代に入って急速に衰えていきます。これに反して、明治期に入ると、香川県の製塩業は隆盛期を迎えていきます。宇多津で大規模な入浜式塩田が築造されるなど西讃を中心に塩田の拡大が急速に進み、塩の生産量は明治9年に全国第3位、明治22年に全国第2位となり、さらに明治27年には全国第1位となります。以後、昭和47年に塩田が廃止される直前頃まで香川県は全国最大の生産地として「塩田王国」といわれていました。
第二次世界大戦後の昭和27年頃からは、長年続いた入浜式塩田に替わり「流下式枝条架塩田」が登場します。この方法は、海岸に堤防を作り、堤の内側に流下盤坂と呼ばれるゆるやかな傾斜をつけて、その上に海水をポンプでくみ上げたものを流して天日で塩分を濃縮し、さらに枝条架(しじょうか)という粗朶(そだ)竹を束ねて吊るした装置に塩水をたらして、自然の風によって乾燥させるというものです。この方式では塩田上の砂を攪拌する作業が必要無くなり、労力は今までの10分の1になりました。また風による水分蒸発を主とするため、比較的日照時間の短い場所や季節でも塩の生産が可能になりました。そして生産高では2~3倍もの成果が上げられるようになりました。
しかし、画期的といわれたこの方式もわずかな期間しか使用されず、昭和47年4月以降、「イオン交換膜法」が導入され、全面的にこの方式に切り換えられます。この方法は天候や自然現象・季節によらない製塩ができ、また、ニガリの無いほとんど純粋な食塩(NaCl)が供給されるようになりました。こうして江戸の初期に始まった讃岐の広大な塩田は不要となり、埋め立てられて工業用地や住宅地あるいは新しい街として転用されていきました。
なお、この記事については、(58話)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”も参考にしてください。
○潟元塩田跡
屋島西町の塩釜神社には梶原景山碑があります。潟元には、亥の浜、子の浜のほか、新浜、屋島塩田があり、生簀浜、三間古浜、明神西浜、明神東浜があったといわれています。明神の東西浜は屋島グランドから旧屋島病院にかけてあったといわれています。